皆さんは何を大切に暮らしていますか?
モノ?楽しみ?美味しい食事?人付き合い?家族?
今回は、僕たちが暮らしの中で大切にしていることについて書いてみようと思う。
僕たちが大事にしていることは「こころをこめて手で作る」こと。
いたってシンプルだけれど、大切なことすべてが含まれるような気がするのだ。
暮らしの中で。
ヘアサロンやバールの仕事の中で。
ハーブ園や畑仕事でももちろん、手作業を大切にしている。
農業系機械があまり好きではない。と言うことも理由の一つ。
もちろん使うこともあるし、自分で持ってるものさえある。
短時間で作業をこなせれるし、一般的に見れば効率的だ。
こういうものを文明の利器と言うのだろう。
しかし僕には、全てを平均化させてしまう違和感であり、暴力的に映ってしまう事さえある。
全く困った感性を持ち合わせたものだ。
例えば、手で草刈りした畑と機械を使った畑では、手刈りした畑の方が圧倒的にきれいな仕上がりで柔らかさが残る。
ワードで作った手紙と手書きの手紙の差のようなものと言えばわかりやすいかもしれない。
手で草を刈った後の畑はいのちが整えられたといった感覚だ。
また、長く続けていくほど自分と大地との親密性が深くなってゆく。
そこで育てる作物も周りと調和し、いきいきとする。
一方、機械を使うと、それなりに早く草刈りが出来るが、毎回一度こっきりの作業という感じになる。
毎度リセットボタンを押してる感覚だ。
そして、もちろん自然との一体感は感じにくい。
そこには何故か大きく何かが足りないのだ。
こうなると、かなり感覚的で好みの話になってしまう。
感覚的であれ、僕は僕なりに文章を綴ろう。
数値的に化学的な実証が欲しければ、それは専門家に任せておけばいい。
もう少しわかりやすく言うと、手で草を刈る場合は、残したい草や、根まで切ってしまいたい草を区別したり、それぞれの場所や植物の性質に合わせて切る高さを変えたり、脳みそが瞬時に的確に判断して、その指令を手が正確に実行する。
作業一つ一つに自分の想いや経験からくる感覚が込められているのだ。
この作業を繰り返しながら、僕たちは畑を育て、大地とより深く分かり合ってゆく。
ちょうど履きなれた革靴のように自分にフィットしてくるのだ。
手で触れ合うことにより、大地との阿吽の呼吸みたいな感覚が生まれてくる。
今後、機械がどれだけ進化しても、様々な要素が重なり、経験に裏打ちされる細かな判断を求められる行為においては確実に人間にはかなわない。
触れ合いも無ければ、そこに幸せも見いだせない。
機械が追い付けると考える人がいるならば、それは人間の能力を誤算しているに違いない。
また、非効率すぎると思う人もいるだろう。
まっとうな意見だ。
時間が取られ、収量も限られる。
因みに僕たちが考える”効率”が意味するものには、畑の収量だけでなく、僕たちやそこに紐づく多くの幸せも含まれるのだ。
こうなると、”効率的”という言葉の定義の時点であべこべだ。
僕たちのアリの涙ほどの経験上、一般的な意味での効率と、喜びや幸せは反比例していることが多い。
せっかく時間を割くのだから喜びながら暮らしたい。
せっかく働くのだから幸せを感じながらじっくり五感で楽しみたい。
そして、そのような心持ちで作ったものを商品にしてみんなに喜んでもらいたい。
そう考える。
まぁ、小難しいことはさておき、非科学的だがこれが僕たちの現実なのだ。
僕たちは数字や計算よりも現実を大切にするリアリストなのだ。
最もわかりやすく例えると、工場の精密機械氏が一片の長さを測って作ったようなおにぎりよりも、お母さんの善玉菌たっぷりの手で握られた愛情たっぷりのおにぎりの方が美味しい。
缶コーヒーよりも人に淹れてもらったコーヒーの方が美味い。
これが現実。
昔の人はこの事を「たなそえる」と言っていたそうだ。
はるか昔、手は”テ”でなく、「たなごころ」だった。
こころを表現する部分。
想いを添えてたなごころを使って形にするからたなそえる。
たなそえられたものは暮らしもこころも満たしてくれる。
僕たちを豊かにしてくれる。
栄養はカロリーだけじゃない。
タンパクや脂質の量だけじゃない。
そんな、蔑ろにされつつある大切なことをこどもたちに繋いてゆかないとなぁ。
そう言う歳になったんだねー。
と、しみじみ思うこの頃。
まだまだ伸びしろたっぷりのびのび伸びていきます。
たなそえられる範囲のめいっぱいでね。