不完全を売るということ

Herb products

完全と不完全の差異について述べようとする時、僕は決まって出口の無い迷路に迷い込んでしまう。それはちょうど、完全な野良猫と、完全な血統書付きの猫はどちらが完全な猫なのか?と言うような議論に似ている。それは結局のところ、あるひとつの価値観の中での完全さ、不完全さであって、それを決めているのはやはりその…その人の考えや、社会的な価値観に左右されるわけで云々…

話を進めよう。

多分僕は不完全さに対して心の底で劣等感を抱きながら、完全さに対してジェラシーを燃やしているのだ。
どうしてそんなことになったのだろう?と考える。
僕たちは、小さな頃から、何かにつけて右へならえ、前にならえを強要されてきた。
並び方は背の低い人が前、高い人が後ろと言った具合に。
僕はどうも上手く馴染めなかったけれど、それでも時が経つにつれ、だるくなる腕を上げながら列を作っていた記憶がある。
そういうことを繰り返す中で、人は 一体化する事の安心感と、枠をはみ出てしまった時の劣等感や焦燥感を植え付けられていくのだろう。

僕が学んだ勉強には、何にでも正解があった。
そして、疑問を抱くよりも先に、そこに自分を押し込んでいく事が普通だった。
もはやワードパズル化してる国語のテストなんて今から考えると笑えてくる。
感情を規定の文字数で表現するなんてナンセンスにも程がある。
しかも決まって答えはひとつしかない。
もしかすると高等なユーモアなのかもしれない。

そんな事を大人になってから考える時、僕は決まって赤レンジャーを思い浮かべてしまう。
何でもそつなくこなして、ヒロインのハートもさらって行く人気者のナイスガイ。
決まって最後は敵に打ち勝つのだ。
なんてったって、ハンサムでスマートだ。
完全でスマートさを追求するこの風潮を僕は勝手に赤レンジャーシンドロームと呼ぶ事にした。

山の中を歩いたり、畑で作業している時、そのような事を頻繁に考えている。
かなり変わった類の散歩であり、農作業であることは言うまでもない。

例えば、山道にある朽ちた一枚の木の葉がある。
木の葉は分解され、また山の一部として消えてゆく。
この自然のサイクルの中での木の葉は木の葉としてのポテンシャルを出しつくして完全だ。
しかし、木の葉だけを持ち帰って食卓の上にでも置いてみると、とてつもなく不完全な葉っぱに見えてしまう。
何かが欠落しているような…

どの植物にもよく見ると同じ形は無い。特性もそれぞれで、臨機応変にその場での役割を担っているように見える。
そしてお互い何かしらに依存しあって存在している。
それぞれが役割を持って、相互作用の上に成り立っている。
言い換えれば不完全なものが寄り集まって多様性を作り、完全な場になっている。

ハーブ園においての僕たちの仕事は、その完全な多様性の場から特定のものを取り出して製品化することだ。
収穫し、作業台の上に植物を載せるその度に、その植物を補完していた他者との繋がりは無くなり、それは本当にあっさりとした不完全なものに思えてくる。
そこには形も味もどれ一つ同じとは言えない、不完全な製品だけがポツリと出来上がる事になる。
そして出来上がった製品は、何故かいつも遊び明かした翌朝に乗る電車の中の気分を呼び起こす。
朝日がまぶしい満員電車の中での完全な孤独感。

僕たちは自然の多様性を感じる事を仕事の楽しみとして働いている。
ノルマを書いたグラフもなければ、タイムカードを押し忘れて事務員さんに小言を言われることもない。
自然の中にいると誰かに何かを押し付けられることもない。
陽の光や風や雨や虫や雑草や落ち葉や菌類やそのようなものがごちゃ混ぜになっている空間が好きで、そこで生き生きと育っている植物が好きなのだ。

それでも僕の中の赤レンジャーは事あるごとに囁いてくる。
ほんとに困ったやつだ。
そんな赤レンジャーとも僕は付き合いが長いので何とかうまくやっている。
赤レンジャーには悪いけれど、彼の目を盗んでは、出来る限り、畑の彼らの健全な不完全さを丁寧に伝えたいと試行錯誤しながら商品を作っている。
こういうブログも彼が寝静まってからこっそりと書いている。
そして彼が考えているよりもずっと僕は不完全なのだ。
彼には内緒だけれど、今でも発送の度に緊張してしまう。
製品の不完全さなのか、自分たちの不完全さなのか、(多分両方だろう)そう言うものを取り繕うがために今でも焦ってしまうのだ。
そのうち、商品と同梱して届いた僕が、「このローズマリーは、少し風当たりのきつい場所で育ったので少し斜めってますが、意外と気性は優しくて、日向ぼっこの時は傍らにいつもテントウムシを休ませているような、そんな幸せなハーブ的人生でした。はいどうぞ。」
なんてことを言ったとしても、あなたならきっと大目にみてくれると信じています。
そういう訳で、僕たちは不完全を売る対価によって生計を立てている。

もう一つ、不完全さの話を書こうと思う。
それは僕自身の話。
不完全どころか、かなりの欠陥製品である。
僕の不完全さのほんの一部分をあげてみよう。
ご承知の通り物事を複雑に考えすぎるきらいがあるし、社会や物事には斜め読みを決め込んでるところもある。
極度のせっかちで怒りっぽい。
周りに合わせれないし、集団行動は大の苦手と来ている。
上手く笑う機能なんて持ち合わせてないし、ネガティブスイッチが入ると止まらない(妻がスイッチオフする迄そのままだ)
etc…
こうして書き出してみると,随分と人に迷惑をかけそうな人格である。

それに加えて突出しているのは、身体自体のシステムの不完全さだ。
上手く機能してないところがあまりにも多すぎるのだ。

僕を車に例えてみるとしよう。
それは、前輪しか動かなくなった4WD車といったところだ。
しかも、ハンドルやクラッチ、ブレーキ、各種レバーやボタン、スイッチ類も既定の場所ではなく、てんでバラバラについている。
メンテナンスは毎日。
週一でオーバーホールが必要なくらいだ。
こんな車を車屋さんに修理に出しても、ハンドルの場所から各種スイッチ、車の癖まで説明しつくしても、結局立ち会いながら修理するしかなくなる。
修理工もこんなシステムを見たことがないのだ。

ちょうど僕が病院に行くとまさにそんな感じだ。
結局、40年近く何とか乗りこなしてきた僕にしかわからないしろものなのだ。

例えば僕は食事や生活にかなり気を使わないと普通の生活が送れなくなる。
妻や友人を観察している限り、僕は普通の人よりかなり腸内環境の維持システムが脆弱過ぎる作りになっているようだ。
身体に合わないものや、添加物などの化学物質を食べるだけでも次の日から調子を崩し出す。
遅くまでお酒を飲んだり、出来合いのものを食べたり、暴飲暴食なんて一番のダメージになる。
食べ物だけでなく、吸う空気や、香りや空調からでも影響を受ける。
もう何でも来いと言ったありさまだ。
おなかを壊すくらいなら序の口だ。外に出してるうちはまだオッケーなのだ。
胃腸や肝臓、腎臓で分解&処理しきれなかった物質は体内にとどまって腐敗しながら僕を蝕んでいく。
放っておくと身体には様々な症状が出だして、メンタルのバランスも壊れていく。
怒りがコントロールできなくなったり、本当に動けなくなって、うつ状態に陥っていく。
それを上手くコントロールしていくには、ちゃんとした食べものを出来るだけ少なく採るようにすること(これがなかなか難しい…)今は1日に2食にしているのだけど、本当は1食くらいが僕には妥当なところだろう。
そして規則正しい生活。
メンタルの維持も大切で、楽しくない仕事なんて入れてしまったら大変なことになる。
そして週に1回のファスティング。
他にも僕のトリセツにはいろいろ書いてあるが、大まかなところ、このような作業を延々と続けて人並みと言われる生活を送ることになっている。

僕はいつの頃からか、きれいな新車を極力傷つけずに洗車と車検を繰り返しながら使っていくスタンスから、ズタボロの中古車を何とか動くように試行錯誤してメンテナンスしながら自分モデルにカスタマイズして乗りこなしてゆくといった戦略に変更して人生を歩んでいる。
そう思うだけで随分と生きやすくなった。

えー、つらいんじゃない?と思う人も多いだろうが、(もちろん僕も完全であってほしいと思ったことは何度もあるけど、こればかりはしょうがないのだ。)スペア部品もないレトロ車を好きで乗ってる人を想像してほしい。
それはそれで豊かな面もたくさんあるのだ。

例えば、僕は人と食事をする場合、少なからず、その後のオーバーホールの予定も組み込む事になる。(僕と同じ食卓を囲んだあなたに気を使わせる気は毛頭無いのでどうか気にしないでもらいたい。あなたとの時間は最高だったし、これは僕の個人的な生活パターンみたいなものなのだから。これからもどうぞよろしく。)
そういう事だから、楽しい時間を過ごせる時や相手と食事をするようにしている。
自ずとその時間は僕の中でとても大切な時間となる。
大げさかもしれないが、もし自分の寿命が分かってたら、今の一瞬をもっと大切に感じるだろう。
そういうのに少し似ている感情だ。
そのように感じながら人と時間を過ごすようになってから、一つ一つの時間の記憶がとてもカラフルなものになった気がしている。
不完全さ故のとても 素敵なギフトだ。

世の中に完全なものなんて一つとしてないだろう。
もし完全に近いものがあるとすれば、それは不完全の相互作用の上に成り立っていたり、そもそも不完全さがあるからこそ、感じたりできるのではないだろうか。

だから僕は違うモデルの自分を目指すのではなくて、今の自分を生き生きと良くすることをしようと進路変更した。

僕たちは何かを目指さないといけないという強迫観念に縛られてはいないだろうか?
今が不完全だからもっと完全を、より完全な赤レンジャーになることを押し付けられ、受け入れてしまってはいないだろうか?

いやいや、生き生きと不完全でいればいいのだ。
躍動する不完全こそが完全なのだ。
そう考えたら少し生きやすくなったり、優しくなれたりしないだろうか。

僕は完全さを求めるレースから進んでリタイアした。
赤レンジャーでは無く赤錆色くらいで進んでいこうと考えている。
赤錆レンジャーなんて、少し玄人ぽくて素敵じゃない?と僕は思うんだけれど、いかがでしょうか?

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