僕が灯台守になったわけ

どうも、象と太陽社・ケンタロウ改め、男木島灯台守の象と太陽社・ケンタロウです。
またまた、この人は何をしだすのだろうか…と、あきれ顔で心配されること間違いなし案件ですが、今回はなぜ、今、灯台守になったのか?
そもそも、灯台守ってなれるんだっけ?
そんなお話。

男木島灯台の灯台守の話が出てきたのは、この春先のこと。
ちょうど今まで勤務していた島のじいちゃんの体調不良をきっかけにそんな話が湧いて出た。
そもそもが人手不足と言うのが島の現状。
動ける人間はすでに自分たちの仕事でいっぱいいっぱい。
僕もしかり。
もうこれ以上仕事を膨らますとどうなってしまうのか、不安が先に立って、返事はいつも濁していた。
ただ、自分たちのツアーなどで、利用する機会も多く、草刈りくらいはボランティアでやっていこうとは思っていた。
それでも、なんとなく灯台のことは気になったままで、この場所の本当の魅力みたいなものをじっくり見たいと思い、それから、早朝や、空き時間を見つけては、ことあるごとに灯台に足を運んでは、この場所に自分を溶け込ませていった。

そもそも、灯台守のじいちゃんには移住してから長い間お世話になっている。
若いころ左官職人をされていたということもあり、DIYするうえで多くを教えてもらった。
また、風呂を作る際、タイルを張ってくれたり、灯台の浜辺で拾った石で壁を作ってくれたりもした。うちの左官部分はこの人なしでは仕上げられていない。
ただ、多くの時間を共にしていても、灯台についての話はあまり聞いていなかった。まさか僕がこんなことになるといは思ってもみなかったし、灯台の魅力にも気付いていなかった。
今、灯台守のじいちゃんに色々聞く中で、島の人が相当な思い入れを持って大切にされてきたことがじわじわと伝わってくる。

話を戻すと、灯台に足しげく通った結果はあまりにも衝撃的で、なぜか、もう一度移住した気分に襲われた。
見るものすべてが新鮮でドキドキワクワクするあの高揚感。
そう、深夜に着いた異国の地で、ホテルで目覚めた朝、窓から街を見渡したときのあの感覚。

実は、8年住んだ男木島に、僕はある一点だけ物足りなさを感じていた。
それは、「洗練された文化的感覚」みたいなものだと思う。
奈良で生まれ育った僕は、神社仏閣・博物館や町屋など、そういったものに囲まれて育ったこともあり、そういった、無言の凄みと言うのか、人々が培ってきた、文化的な明るい素敵な側面が垣間見れることが無いと、感覚的にもの寂しくなるのだ。
でも、それはそれぞれの土地の特色でもあると、納得していた。
ここに通って、まさかの出会いだった。
目の前には日本で2番目に交通量の多い本線航路。
日本の歴史をつくった多くの船舶が横切ったはずだ。
明治に日本人技術者だけで庵治石を使って作られた灯台と、レトロな建物。
多分風景はその当時と変わっていない。
夜になるとなおさらその趣を感じることができる。
ここに暮らせたらどんなに素敵だろうか。
そしてビビットきた。
集落・自然・高い文化的価値この3つを体感してもらえたら最高の滞在が提供できると。
灯台に泊まる。
最高に文化的でノスタルジックな体験。
これをサービス化したい。
僕は灯台守になることを決めた。
そのために必要な、荷物の運搬や、食事サービスなど、何もかもを一気に整えた。
島のばあちゃんたちにも協力してもらえることになった。
島の資源や、歴史すべてを繋ぐことで生まれる新しい男木島サーキュラー。
お客さまも地域も自分たちもハッピーになるそんな循環がまた大きくなる。
レモンツリーホテルプロジェクトの第2弾のストーリーが紡ぎだされたと感じている。

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